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リュウの記憶

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選ばれし弁護人 第一章


 これは、私がまだ、ほんの子どもだった頃のことだ。あの頃の私は、世界は単純で、正しい言葉を信じていれば、正しい結果が得られると本気で思っていた。

* * *


 印刷所の奥には、いつも紙とインクの匂いが漂っていた。古いプリンタの排気がこもる事務所で、父は夜遅くまで伝票を確認していた。小さな会社だったが、地域のチラシや名刺、ネット注文の小口印刷まで請け負っていて、夜になっても明かりが消えることは少なかった。

 ある日、事務の一人が姿を見せなくなった。数日前まで帳簿を任されていた男だ。体調不良だと連絡があり、父は特に疑いもせず休ませていた。事務机には書類の束と、鍵のかかった引き出しが残されていた。

 翌週、見慣れない封筒が届いた。消印も会社名もない。父が封を切ると、中には「連帯保証契約書」と印刷された書類が入っていた。金額は、個人で負える範囲を超えていた。保証人欄には、父の署名と印鑑が押されている。

 それを見た父の顔から、血の気が引いた。見覚えのない文字。けれど筆跡は、どう見ても父のものだった。印鑑も、確かに父の印影だ。

 父はすぐに警察に相談に行った。だが、戻ってきたときの表情だけで、何も進展がなかったことは分かった。当時は意味がよくわからなかったが、「民事不介入」という言葉によって、警察は動かなかったらしい。何かを訴えようとしても、そのための手段すら持たない現実を、突きつけられたようだった。

* * *


家に戻ると、郵便受けに保証会社からの封筒が届いていた。分厚い紙に印字された通知には、こう書かれていた。

――"支払いが確認できない場合、法的手続きに移行します。財産の差押えを含む対応を行う可能性があります。"

 父は、しばらくその紙を持ったまま動かなかった。机の上に置かれた印鑑だけが、妙に目についた。印面に残る朱肉が、まるで罪の証拠のように見えた。

 私はその光景を黙って見ていた。

 正しいことをしてきたはずの父が、たった一枚の紙によって追い詰められていく。

 その紙に記された文字だけが現実を支配していて、誰もそれを否定できない。

 それが世の中の仕組みなのだと、この時、初めて理解した。

* * *


 翌日、父は警察署に再び向かった。そして、いつまでも戻ってこなかった。

 厚い雨雲が空を塞ぎ、やがて雨が降り始めた。私は傘を持って、迎えに出ることにした。

 薄暗い路地を抜けた先、街灯の下に、見慣れない少女が立っていた。

 光をまとっているかのような、淡いプラチナブロンドの外にはねた髪。均衡が取れすぎている、と感じるほど整った顔立ちだった。神々しい存在――そう表現するのが一番近いのだろう。だが、その場で私の視線を引きつけたのは、彼女自身ではなかった。

 彼女の手に、一本のペンがあった。白と金で装飾された、異様なほど完成された筆記具。その洗練された美しさに、私の視線は引き留められていた。

「君は、言葉の力を知っているか」

 耳の奥に直接響くような声だった。彼女は、ペン尻を私に差し出しながら言う。

「このペンで書いた契約は、上書きできる。不当な言葉も、歪められた約束も、正しい形に戻せる」

 私は雰囲気に圧倒され、何も考えられず、手を伸ばした。ペンは驚くほど冷たく、触れた瞬間、指先が震えた。

 家へ戻ると、すでに父は帰ってきており、机に突っ伏していた。声をかけると、力無く首を振る。私は、何の成果もなかったのだと悟った。

 机の上には、例の保証契約書のコピーが広げられていた。

 私はその紙を見つめた。数字と文字が、まるで生き物のように並んでいた。

 その中心に、ひとつの文があった。

「甲は乙の債務を、連帯して保証する。」

 その行の右端に、小さく但し書きが添えられている。

 ――「保証は満期支払の完了をもって消滅する」

 私はポケットから、あのペンを取り出した。ペン先を紙の上に置き、書かれていた文字を、ゆっくりと横一直線になぞった。文字が震え、組み替わり、別の文になった。

「本契約は、保証人の意思表示に瑕疵がある場合、初めから無効とする。」

 次の瞬間、室内の蛍光灯がわずかに明滅した。息をのんでペンを握りしめる。

 世界が静まり返ったように感じた。

 翌朝、保証会社からの電話があった。「当社としては、当該契約は成立していなかったものと認識しております」

 父は何が起きたのか分からず、書類を何度も見直した。そこにあったのは、昨夜と違う文面だった。

 私は、机の引き出しの奥にしまった白と金のペンを見つめた。

 ――これは奇跡だ。

 そう、信じることにした。



 その日から、私の中で世界の仕組みが変わった。

 正義は、言葉の形で世界に刻まれる。

 契約は現実を縛り、書き換えれば真実を取り戻せる。

 それが、この世を動かす力なのだと。

 だが、あの日出会った存在が何者だったのか。なぜ、私にそのペンを渡したのか。それを知るのは、ずっと後のことだった。



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選ばれし弁護人 第二章


 あの日以降、白と金のペンは、机の引き出しの奥にしまわれた。

 私は、それを毎日取り出すようなことはしなかった。何でも書き換えられる力など、子どもながらに私自身が、一番恐れていたからだ。

 けれど、忘れることもできなかった。

 数ヶ月に一度くらいの頻度で、あの少女は再び姿を見せた。

 雨の日の歩道橋だったり、誰もいない駅のホームだったり、人通りの途切れた交差点だったり。現れる場所に規則性はなかったが、彼女はいつも当然のようにそこに立っていた。

「言葉は世界を定義する」

 彼女は時々、そんな話をした。

「法は、人間が現実へ打ち込む楔だ。だからこそ、不完全であってはならない」

 当時の私には、半分も理解できなかった。ただ、その言葉には奇妙な説得力があった。

 やがて私は、法律を学ぶようになった。

 警察官になろうとは思わなかった。父の件以来、あの組織は、"正しさを守る場所"には見えなくなっていたからだ。目の前に苦しんでいる人間がいても、紙に書かれた定義が違えば動かない。それが、私には耐え難かった。

 その一方で、契約書や法律の文面には、奇妙な魅力を感じていた。たった数行の文章が、人の人生を救いもすれば、破壊もする。だからこそ、正しく扱わなければならない。

 学生時代、私は文章や議論の矛盾を見つけることに長けていた。模擬裁判でも討論でも、言葉の綻びは不思議なほどよく見えた。

 そして、弁護士になった。

 気づけば私は、「子どもの案件に強い弁護士」として知られるようになっていた。

 非行少年。虐待。育児放棄。学校問題。なぜか、そういう案件ばかりが、私のところへ集まってきた。今にして思うと、不自然だったのかもしれない。しかし当時の私は、それを"使命"だと思っていた。

 苦しんでいる子どもを救う。

 選ばれた自分が、それをやるべきなのだと。

 あのペンの力を使ったこともある。しかしそれは、本当にどうしようもない時だけだった。

 例えば、虐待を受けていた子供が、書類の不備だけを理由に、保護の対象から外されそうになった時。あるいは、明らかに冤罪だった少年が、"供述に任意性あり"という判断によって、救いの道を閉ざされそうになった時。

 そんな時だけ、私は世界の文章を、ほんの少しだけ修正した。そして、その度に現実は静かに書き換わった。

 誰も気づかないまま。

 まるで最初から、そうだったかのように。

 あの少女は、時折、私の前に現れた。最初に会った頃と、変わらない姿で。

「君は、よくやっている」

 そう言われた時、私は誇らしかった。

 自分は正しいことをしている。

 世界を少しずつ、あるべき形へ戻している。

 本気で、そう信じていた。

 気づけば、鏡に映る私の髪には、白いものが混ざり始めていた。

* * *


 ある頃から、あの少女は、ある種の話を持ってくるようになった。

 初夏の雨が続く頃、資料を束ねて現れた彼女は、いつもと変わらない口調で切り出した。

「地方都市で、興味深い事例が確認されている」

 彼女が見せてきたのは、正式な報告書というより、雑多な情報を無理やり繋ぎ合わせたような記録だった。

 地方都市の住宅街で、"どんな怪我でも治す少女" の噂が広がっていること。その父親が、知人を頻繁に自宅へ招き入れ、仕事を辞めて来客の対応を優先するようになっていること。中には、「工場事故で片手を失った男が、数日後には普通に手を動かしていた」という証言まである。

 どれも信憑性に欠ける話だった。

 噂話。勘違い。誇張。

 そう言ってしまえば、それで終わる程度のものだ。だが、それらは妙に一貫していた。

 彼女は、私の反応を確かめるように、小さく頷いた。

「異能者だ。治癒能力を持っている」

 私は、再び資料へ視線を落とした。

 異能者の存在そのものは、今さら疑うような話ではなかった。

 奇妙な能力を持ち、それによって問題を抱えた子供たち。いつ頃からか、彼女はそうした事例を選んで私の元へ持ち込むようになっていた。

 これまでにも、説明のつかない出来事はいくつか見聞きしてきたし、他ならぬ私自身が、あのペンを介して、その力の一端に触れてきた。

 だが、彼らは表には出てこない。

 偶然として処理され、噂として消え、曖昧なまま埋もれていく。

 ここまで継続的な痕跡が残っている例は珍しかった。

 彼女は続けた。

「父親が、少女の能力を利用し始めている。放置すれば、遠からず問題になるだろう」

「……保護が必要だと?」

「そう考えている者もいる」

 その言い方が、少しだけ気になった。

 まるで、彼女自身は別の立場にいるみたいだったからだ。

 だが私は、深く追及しなかった。

 重要なのは、子どもが危険な状況に置かれているという点だけだった。



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続く...


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執筆者: 花岡慧宙
© Musurunsoft – PSI Masquerade DW Project