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サキの記憶
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不屈の少女 第一章
私の力が、父を壊した。
傷を塞ぎ、骨を繋ぐ――代償も痛みもない癒し。どんな怪我も治せるくせに、他人の身体の奥深くまでは届かない。他人の病気だけは治せない、そんな中途半端な力を、父は "奇蹟" と呼び、そして壊れていった。
* * *
私は、死んで生まれるはずだったらしい。そう聞かされて育ったわけではないが、親戚の噂話や、父が酒に酔ったときに漏らす言葉をつなぎ合わせると、どうやらそういうことになる。出産は難航し、途中で状況が悪くなった。助からない可能性もあった――その程度の情報しか、私には残されていない。それでも私は生きていて、母も生きていた。その理由を、正確に説明できる人はいなかった。
父だけが、その出来事を特別なものとして覚えていた。「お前は、生まれたときから違ってた」。それが父の口癖だった。何がどう違うのか、父は説明しなかったし、私も聞かなかった。
幼い頃の私は、よく怪我をした。転び、擦りむき、ときには深く切ることもあったが、治りが異様に早かった。翌日には塞がり、数日後には跡すら残らない。それが普通なのか異常なのか、私には判断がつかなかった。そもそも私は、痛みを覚えていなかった。怪我をしても、周囲が騒ぐから「大変なことらしい」と理解するだけで、自分の中にはそれに対応する感覚がなかった。
美術の授業で、彫刻刀を使っていたときのことだった。隣の席の子が手を滑らせ、指を切った。大した深さではなかったが、血はすぐに出て、教室がざわついた。先生が呼ばれ、誰かが保健室に行こうと言った。私は、その子の手を見ていた。切れた場所と、そこから流れている血だけが、やけにくっきり見えた。
気がつくと、私はその子の指に触れていた。止めようとか、治そうとか、そんな意識はなかった。ただ、そうするのが自然だと思った。私にだけ見えている淡い緑色がかった光が、傷口に沿って静かに動く。しばらくすると、血が止まり、赤く開いていたはずの傷口が、ほとんど分からなくなった。周りが静かになり、先生は私の手をゆっくり離した。その後のことは、よく覚えていない。
家に帰ると、その話はすでに父の耳に入っていた。どこまでが事実で、どこからが誇張だったのかは分からない。ただ、その日を境に、父の目つきが変わった。
私は子どもではなく、確かめるべき何かとして見られるようになった。私が何らかの拍子に怪我をしても、少しするとそこには何も残っていないのを確かめると、父は、必ず同じことを聞いた。
「どうやってる」
答えようがなかった。それは、意識してやっていることではなかったからだ。母はその話題を避け、父と私の間に割って入ることが増えた。
それからしばらくして、父は家に人を連れてくるようになった。最初は知り合いだった。仕事仲間や、近所の人間。転んで擦りむいたとか、包丁で指を切ったとか、そういう軽い怪我をした人ばかりだった。
私は、呼ばれるままに居間へ出された。父に言われて、傷に触れた。結果はいつも同じだった。血は止まり、傷は塞がった。驚く声が上がり、感謝され、父は満足そうに頷いた。「すごいだろう」「この子は特別なんだ」。そう言って、私のことを説明した。
回数が増えるにつれて、連れてこられる人も変わっていった。知り合いではない顔が混じるようになり、話の内容も少しずつ重くなった。何を治してほしいのかより、私に何ができるのかを聞かれることが多くなった。それでも父は、「大丈夫だ」「お前の力は、神様が与えてくれた奇蹟だ」と繰り返した。
母は、その場にいないことが多くなった。理由をつけて台所に下がったり、外へ出たりした。私と目が合うと、何か言いたそうにして、結局何も言わなかった。
私は、そこに立っているだけだった。頼まれれば触れ、終われば部屋に戻った。自分が何をしているのか、よく分からなかった。ただ、父の声が少しずつ変わっていくのは分かった。人に向けて話しているときの声と、私に向ける声が、同じになっていった。
いつからか、父は人を帰すときに、封筒を受け取るようになった。最初は断っていたはずなのに、気がつくとそれが当たり前になっていた。「気持ちだ」「受け取らないほうが失礼だろう」父はそう言っていた。
その頃から、父は仕事の話をしなくなった。朝、家を出る時間も曖昧になり、代わりに人が来る時間を気にするようになった。いつの間にか、父は元の仕事を辞めていた。
そんなことを繰り返すうちに、力の限界も見えてきた。私は、怪我であれば大抵のものは治せると思っている。工場の機械に潰されて手を失った男性が来たことがあった。これは無理かもしれない、と思ったが、やってみれば問題はなかった。失われた手を、生やすことさえできた。
けれど、他人の体の内側で起きている異変には、どうすることもできなかった。軽い風邪ですら、治すことはできない。自分自身にはもっと深く力が届いている感覚があるのに、それを他人に対して行うことは、どうしてもできなかった。
その少し後から、母の様子が変わり始めた。疲れやすくなり、仕事を休む日が増え、外に出ることが減っていった。最初は年のせいだと思っていたし、母自身もそう言っていた。けれど、その変化は戻らなかった。私は、治そうとした。それが自分にできることだと思ったからだ。何度も触れ、何度も集中したが、何も変わらなかった。私の力は、母の身体には届かなかった。外側の傷は塞げても、内側から壊れていくものには、どうすることもできなかった。
父は、その事実を受け入れられなかった。「前はできただろ」「生まれたときも、そうだったじゃないか」。その言葉は、次第に命令になり、祈りになり、やがて怒りに変わっていった。母が亡くなった日、父は泣かなかった。ただ黙って私を見ていた。まるで、答えを探すように。
それから父は、少しずつ壊れていった。家は荒れ、庭は放置され、生活の形が崩れていった。酒の匂いが増え、言葉は荒くなり、私に向けられる視線には、期待と憎しみが混ざるようになった。父は私の力を信じ、その力に裏切られた。そして、信じていたものが壊れたとき、父自身も壊れていった。それが、私の知っている家庭の終わりだった。
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不屈の少女 第二章
父は、金属バットを持っていた。
いつからそこにあったのかは分からない。ただ、それが叩くための道具であることだけは、はっきりしていた。
父の視線は私に向いているようで、実際には別のものを見ていた。私の顔ではなく、答えを探しているような目だった。
ここで何を言っても、意味はない。私は動かず、声を出すことにした。
「もう嫌!わああああ!!!」
喉から出た音は、少し大きすぎた。けれど、それでよかった。音は家の中に響き、外へ漏れた。怒鳴り声と混ざり、悲鳴のように聞こえただろう。そう聞こえる必要があった。
父は、その音に反応した。私を黙らせるように、金属バットを振り上げる。
誰も来なければ、それまでだ。その一撃を受けることも、選択肢の一つだ。そう思って、私は動かなかった。
次の瞬間、窓が割れた。
冷たい夜風が一気に流れ込み、室内の空気が入れ替わる。父の動きが止まり、視線が私から外れた。
知らない男が立っていた。
夜の外側を、そのまま引きずり込んできたような男だった。筋骨隆々の長身に、酒気を帯びた赤ら顔。暴力の気配を、そのまま形にしたような存在だった。
理解よりも先に、父の身体が動く。
「誰だ、お前……!」
怒鳴り声と同時に、父は男に向かって金属バットを振り下ろした。迷いはなく、ためらいもない。それは、私に向けられていたものと同じ軌道だった。
――当たる。
そう思ったが、男は、振り下ろされる寸前のバットの先端を、片手で掴み取っていた。
男はバットを軽くひねり上げて奪い取る。そして躊躇なく、その柄の部分を父の脇腹へ横薙ぎに叩き込んだ。
鈍い音が響き、父の身体が床に叩きつけられる。呻き声を上げながら、父は男を睨みつけていた。
「落ち着けよ」
男は低い声で言った。
「その子は、あんたの娘か? 家族ってのは、仲良くするもんだぜ?」
父は答えなかった。代わりに、呼吸だけが荒く続いていた。
男は、手にしたままの金属バットを一度眺める。
次の瞬間、音が鳴った。バキバキッ、と。耳に直接響くような、嫌な金属音。バットが、男の手の中で歪んでいく。曲がる、というより、押し潰されているようだった。細長かったそれは、抵抗する暇もなく形を失い、丸く、塊へと変わっていく。野球ボールほどの大きさになるまで、そう時間はかからなかった。
男は、出来上がった金属の球を床に放り投げた。鈍い音がして、それは転がり、止まった。
「こんなもんだ」
男はそう言い、父に視線を向けた。
「俺を通報する気なら、どうなるか分かるよな?」
それから、ようやく私のほうを見る。私は、縮こまったまま、転がる球を見ていた。男からは、泣いているようにも見えただろう。けれど、自分でも分かるくらい、視線は落ち着いていた。
恐怖だけでは、なかった。
――私だけじゃない。
初めて、自分以外の "異能" を見た。その事実が、遅れて、静かに胸の奥に沈んでいった。
* * *
男が去ったあと、家の中は急に静かになった。割れた窓から夜風が入り込み、床に落ちた埃や紙くずがわずかに動いていた。父は倒れたまま、しばらく起き上がらなかった。
私は、壁に背をつけたまま父を見ていた。近づく必要は感じなかった。父の呼吸は荒く、目だけが動いていた。私を見る視線には、さっきまでとは違う色が混じっていた。怒りでも、期待でもない。ただ、理解できないものを見る目だった。
やがて父は身体を起こした。何か言おうとして口を開き、結局、音にならないまま閉じた。
「……今日は、もう遅いので」
自分の声は、思っていたより落ち着いていた。
「部屋に戻ります」
父は何も言わなかった。止める言葉も、怒鳴る声もなかった。ただ、私を見ていた。
「今まで……ご迷惑をおかけしました」
それが正しい言い方かどうかは分からなかった。ただ、そう言うのが一番、無難だと思った。
「お父さん」
その呼び方を口にしたのは、久しぶりだった。
私はそれ以上何も言わず、自分の部屋へ戻った。ドアは閉じたが、鍵はかけなかった。父の気配は、廊下に残ったままだった。
その夜、父は私の部屋を訪れなかった。朝になっても、昼になっても、声はかからなかった。家の中には生活音だけがあり、会話はなかった。私たちは同じ家にいながら、互いに存在しないもののように過ごした。
その間に、私は荷物をまとめた。時間は十分にあった。必要なものと、必要でないものの区別は、すでについていた。水色のナップザックは小さく、着替えと最低限の持ち物を詰め込むだけで、すぐに膨らんだ。
玄関へと向かうとき、居間を一度だけ見た。父の姿はなかった。声をかける理由も、残っていなかった。
* * *
家を出たのは、外がすっかり暗くなってからだった。引き戸を開けると、昼間とは違う冷たい空気が流れ込んでくる。私は水色のナップザックを背負い、外へ出た。思ったよりも重さはあったが、足取りが鈍るほどではなかった。
数歩進んだところで、人影に気づいた。道の向こうから歩いてくる男がいる。心臓が一拍だけ早くなる。
――昨日の人だ。
男は、私の姿を見て足を止めた。偶然通りかかった、というのが正しそうだった。狙って来たわけではない。その距離感が、少しだけ安心できた。
「昨日助けてくれた人ですよね?」
私は先に声をかけた。思っていたより、声が硬かった。
「ありがとうございます。私...家出することにしました!」
緊張を振り払うように言い切る。言葉にすると、状況がはっきりする。男は少し驚いた顔をしていたが、すぐに事情を察したようだった。視線が、私の背中のナップザックへと回る。
私は、昨夜のことを思い出していた。金属が歪む音。形を失っていくバット。あの力が、どういう仕組みなのかは分からない。ただ、普通ではないことだけは確かだった。
「昨日のあれは、どうやったんですか?」
私がそう言うと、男は少し肩をすくめた。
「気になるか?」
私は、正直に頷いた。男は周囲を一度見回し、近くにあったパン屋のアルミ看板を引き剥がした。
男の雰囲気がひと回り大きくなったかのような錯覚を覚える。
次の瞬間、金属が、紙のように歪み、男の手の中で丸まっていく。
「……」
私は眉をひそめた。
「それ、元に戻してください」
男はきょとんとした顔をしたが、渋々という様子で、丸まっていた看板を引き伸ばした。完全には戻らず、シワだらけになった。男はそれを眺めて苦笑する。
私は、その腕に視線を移した。男の腕には、目立つあざが一つ、くっきりと残っていた。昨夜の出来事を思い返しても、あれほどのものができる場面はなかった。別のところで負ったものなのだろう。
「その腕の怪我……ちょっと見せてくれますか?」
男は訝しげに腕を差し出した。私はそこに手を当てる。意識を向けると、いつもの感覚が指先に集まる。淡い緑色がかった光が、腕のあざを薄く覆うようにわずかに滲む。それは、みるみる薄くなり、消えた。男が目を見開くのが分かった。
「私も、こんなことができるんです。」
私は手を離した。
「これで何とか父の暴力に耐えてきましたが、そのせいで、少しずつエスカレートしていって...」
私は何を言ってるんだろう。こんな男に、そこまで話す必要はないはずだった。男は、深くは聞いてこなかった。ただ、私の顔を改めて見ていた。
「私は、ちょっと離れた叔母さんのところに行きます」
それだけは、なぜか伝えたかった。
「また会えるといいですね」
男は少し間を置いてから、頷いた。
「ああ。まあ、機会があればな」
男が背を向けたあとも、私はしばらくその場に立っていた。心臓の音が、まだ少しうるさい。
水色のナップザックの重みを確かめてから、私は反対方向へ歩き出した。
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不屈の少女 第三章
叔母の家の場所は分かっていた。駅からバスに乗って、終点で降りて、少し歩く。子どもの頃に一度だけ行ったことがあり、家の外観も、ぼんやりと覚えている。
ただし、それは昼間の話だ。
私は、あえて夜を選んだ。人目を避けたかったからだ。だったら、普通のルートは使えない。夜に出た意味がなくなる。
スマホの地図を見ると、住宅地を抜ける道とは別に、小高い山を越える道が表示されている。街灯は少なく、人通りもない。少し遠回りになるが、そのほうが目立たない。
問題は、辿り着けるかどうかではなかった。辿り着いたあと、どうなるかだ。
助けてくれるかもしれないし、そうでないかもしれない。歓迎はされないだろう。でも、追い返されるとも限らない。助けてくれなかった場合は、どうするのか。私は、そこまで深く考えないことにしていた。
もしダメだったら、そのまま山に入ればいい。叔母の家の周りは、確か森が多かった。使われていない小屋くらい、どこかにあるはずだ。屋根があって、寝られれば十分。怪我は治るし、多少の無理はきく。
野狐みたいに、野山で暮らすのも悪くない。人に見つからないようにして、夜に動いて、昼は隠れる。
――それが現実的かどうかは、考えなかった。
* * *
叔母の家に着いたのは、空が白み始める頃だった。
夜のあいだ山道を歩き続けたせいで、足は重く、靴の中が少し湿っていた。それでも、不思議と眠気はなかった。朝が来る、という事実だけが、一定の速度で近づいてくる。
家は、記憶よりも少し古くなったように見えたが、外壁の色も、門の形も、ぼんやりと覚えていたものと一致している。間違いはない。私は門の前で立ち止まり、呼び鈴を押すべきかどうかを考えた。
考えた末、押した。
しばらくして、鍵の外れる音がして、戸が開いた。
叔母は、驚いた顔で私を見下ろした。次に、私の足元、背中の水色のナップザック、そして顔へと視線を戻す。
「……どうしたの?」
声は低く、まだ寝起きの色が残っていた。私は一度だけ息を吸ってから、短く答えた。
「少し、泊めてもらえませんか」
叔母はすぐには返事をしなかった。けれど、扉を大きく開け、私を中へ入れた。
* * *
家の中は、生活の音がきちんとする場所だった。朝の支度、台所の物音、湯を沸かす音。私がいた家とは違う。壊れかけでもなく、常に身構える必要もない、普通の家の音だった。
二階から、足音がした。階段を降りてきたのは、見覚えのない子どもだった。私より少し小さい。ランドセルを背負い、靴下を気にするような素振りをしながら、ちらりとこちらを見る。
「あ、誰?」
私に向けられたその一言には、驚きも警戒もなかった。ただの確認だった。
「親戚の子よ」
叔母が簡単に答える。
「ふーん」
それだけ言って、子どもは私から視線を外した。興味を失ったというより、判断が終わった、という感じだった。
玄関へ向かいかけて、ふと思い出したように足を止め、私の背中を見る。視線の先にあるのは、水色のナップザックだった。
「それ、何? 逃げてきたの?」
私は答えなかった。子どもは肩をすくめただけで、それ以上は何も言わず、靴を履いて外へ出ていった。すぐに、ドアが閉まる音がする。学校なのだろう。
家の中が静かになり、ようやく空気が落ち着いた。
* * *
朝食のあと、時間はゆっくり進んだ。
この家には、大人の男はいなかった。叔母は専業で、夫は今、長い出張に出ているらしかった。それは、助かると思う気持ちと、長くはいられないという感覚を、同時に連れてきた。
私は居間の端に座り、特に何もせずに過ごした。テレビの音が流れ、時計の針が動く。
十時を少し過ぎた頃、叔母が、画面を開いたままの小さなノートパソコンを机の上に置きながら、向かいに座った。
「ねえ」
私は顔を上げた。
「正直に言うわね。私、どうしたらいいか分からないの」
声は静かだった。責めるでも、突き放すでもない。
「あなたを追い返すつもりはない。でも、このまま何も決めずに置いておくのも、違うと思う」
少し間を置いて、続ける。
「だから、相談しようと思うの。専門の人に」
叔母は何かを入力した後、パソコンの画面をこちらに向ける。
「ほら。こういうケースを扱っている、相談窓口があるの」
画面上のブラウザには、ナビゲーターのような女性のイラストと共に、入力欄が並んでいた。特別なサイトには見えなかった。よくある相談フォームだ。
「……いいです」
叔母は、ほっとしたように息を吐いた後で、画面を見ながら入力を始めた。
名前、年齢、簡単な事情。私は、時々叔母の質問に答えながら、その様子を眺めていた。
送信ボタンが押される。
「返事は、すぐじゃないと思うけど」
叔母はそう言った。その直後に、スマホが鳴る。叔母は画面を確認したが、すぐに目を離した。おそらく、ただの自動返信メールだったのだろう。
しかし、そのわずか数分後に、再び叔母のスマホが鳴る。
叔母は少し怪訝そうな顔をして、もう一度画面を確認すると、そのまま私にも見せた。それは、先ほどの相談サイトからの返信だった。
内容は簡潔で、形式ばっている。
――ご相談内容を受理しました。担当者が、近日中に直接ご連絡、または訪問いたします。
画面の下部には、訪問予定の日時だけが記載されていた。担当者の詳しい情報は、書かれていない。
「……早すぎない?」
私は、何とも言えなかった。胸の奥に、小さな引っかかりが残る。理由は分からない。ただ、偶然ではない、という感覚だけがあった。
どこかで、もう何かが決まってしまったような。そんな奇妙な感覚だけが、静かに残っていた。
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不屈の少女 第四章
あれから二日後の午後になって、チャイムが鳴った。
叔母は少し姿勢を正してから、玄関へ向かった。私は居間に残り、テレビの音を聞きながら、そのやり取りに耳を澄ませていた。低く落ち着いた男の声がする。よく通るが、強くはない。
「こんにちは。ご相談の件で伺いました」
やがて、叔母に呼ばれた。
居間に立っていたのは、細身で背の高い男だった。白髪が混じった短い髪。縁のない、四角い眼鏡。年齢は五十代前後だろうか。スーツの胸元には、金色の小さなバッジがついている。
弁護士だ、とすぐに分かった。
「はじめまして」
男は軽く頭を下げた。
「今日は、お話を伺いに来ました」
声には抑揚が少なく、丁寧だった。威圧感はない。けれど、曖昧さもなかった。
叔母と男は、先に話を始めた。家庭の状況、これまでの経緯、今後の不安。私は、少し離れた場所に座り、そのやり取りを聞いていた。話題は私のことなのに、私は席にいないような感覚があった。
「少し、ご本人にも聞いていいですか」
男が、こちらを向いた。
「身体のことで、人と違うと感じたことはありますか」
――これは、一体何のための質問だろう?
一瞬、迷った。けれど、否定する理由もなかった。
「……あります」
男は頷いた。メモを取る様子はない。ただ、私の顔を静かに見ている。
「それを、誰かに使えと言われたことは?」
少し、間が空いた。
「あります」
それだけで、質問は終わった。
「すぐに結論を出す必要はありません」
男はそう言って、叔母のほうを見る。
「当面は、この家で過ごす形がいいでしょう。手続きについては、様子を見ながら進めます」
叔母は、安堵したように息を吐いた。
私は、その会話を聞きながら、不思議な感覚に包まれていた。拒まれてはいない。追い出されてもいない。それなのに、自分の立つ場所が、少しずつ固定されていく感じがあった。
話は、それで終わった。男は立ち上がり、玄関へ向かう前に、こちらを見た。
「無理はしないでください」
淡々とした声だった。
「今は、それだけでいい」
ドアが閉まる音がして、家の中が静かになった。
* * *
あの弁護士の手腕によるものだろうか。その後のことは、驚くほどスムーズに決まっていった。
私の立場は、叔母が身元引受人となり、この家で一時的に保護される、という形に落ち着いた。書類上の手続きや、学校とのやり取りも、気づけば整っていた。
それからしばらく、学校には、ほとんど行かなかった。理由を説明する必要もなく、無理に呼び戻されることもなかった。
卒業式には出ていない。後日、校舎の奥にある、普段は使われていない空き教室で、担任から卒業証書を手渡された。それだけで、終わった。写真もなく、拍手もなかったが、問題はなかった。形式は、すでに十分だった。
進学先は、叔母と相談して通信制高校になった。叔母の名字を名乗るわけでも、正式に何かが決まったわけでもない。ただ、ここにいることが許されている。それだけの状態が、静かに続いていった。
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不屈の少女 第五章
季節が一つ、はっきりと変わった。
空気は湿り気を帯び、夕方になっても気温はなかなか下がらなくなった。私は高校生になっていた。通信制という形ではあったが、書類上はそういうことになっている。課題は自宅でこなし、必要なときだけ登校する。叔母はそれを「無理のない選択」と言った。
無理は、確かに少なかった。けれど、居場所が増えたわけでもなかった。
家の中は静かで、清潔で、問題はない。叔母は気を遣ってくれていたし、必要な距離も保ってくれていた。
この家には、私より少し年下の子どももいた。顔を合わせれば挨拶はするが、それ以上の会話はない。生活のリズムも、関心の向きも、重ならなかった。同じ屋根の下にいるだけの存在だった。
どこかで、息が詰まる感覚だけは消えなかった。私がここにいる理由は、善意と手続きの結果でしかない。その事実が、日を追うごとに輪郭を持ってくる。
家にいる時間が長くなるほど、外に出る理由を探すようになった。
買い物でも、散歩でも、何でもよかった。目的があるふりをして、玄関を出る。
家の裏手には、小さな山があった。山と言っても切り立っているわけではなく、住宅地の終わりに、そのまま続いているような緩やかな起伏だ。舗装された道は途中で途切れ、代わりに踏み固められた土の道が森の中へ延びている。
最初は、入口のあたりを少し歩くだけだった。
木々の間を抜ける風の音や、湿った土の匂いに触れて、引き返す。それだけで、家に戻るよりは楽だった。
次第に、奥へ入るようになった。
道は細くなり、足元には落ち葉が溜まる。夏に近づくにつれて、緑は濃くなり、光は上から斑に落ちてきた。昼間でも、森の中は少し暗い。人の声は届かず、代わりに虫の羽音や、鳥の鳴き声が聞こえる。
ポケットに忍ばせていた双眼鏡を目に当てて、鳥の様子を追う。この双眼鏡は、おもちゃに近い軽いもので、倍率は低いが、邪魔にならないので、気に入っていた。
ここでは、誰とも話さなくていい。
何かを求められることも、説明する必要もなかった。
私は、適当な場所に腰を下ろして、しばらく動かずにいることが多かった。木の幹に背中を預けたり、岩の上に座ったりする。時間を決めることはない。気が済んだら立ち上がり、そうでなければ、ただそこにいる。
森の中では、自分がどこに属しているのかを考えなくてよかった。
ここにいていい理由も、いなくていい理由も、同じように意味を持たなかった。
気がつくと、そうした時間が増えていた。
* * *
その頃、断続的に流れる異様なニュースに、全国が恐怖に包まれていた。
ある工事現場での作業員たちの惨殺事件を皮切りに、各地で謎の大量殺人事件が頻発していた。犯人は神出鬼没で、現れる場所にも規則性がなく、突然姿を現わすという。特徴的なホッケーマスクをかぶっている、とも言われていたけれど、そんなニュースは、私には関わりのないことだと思っていた。
あの日も、私はいつものように森を歩いていた。家を出たのは夕方だったが、森の中では時間の感覚が曖昧になる。木々に遮られて、日がどれくらい沈んだのかが分かりにくい。
気づけば、周囲は思ったより暗くなっていた。陽はまだ完全には落ちていないが、森の中では夕方と夜の境目がすでに曖昧だった。いつもより少し奥まで来てしまった、と、軽い焦りが生まれる。
そのとき、不意に人の声が聞こえた。楽しげな声、笑い声。複数人が集まっている気配だった。森の中では珍しい。足を止め、耳を澄ました。
少し進むと、視界が開けた。
そこにはキャンプ場があった。テントがいくつも並び、あちこちでランタンの灯りが揺れている。周囲が暗い分、その光だけが浮かび上がって見えた。
私は引き返そうとした。流石に、もう帰らないといけない。
そのとき、地面が揺れた。
鈍い音が足元から伝わってくる。揺れは一度きりではなく、重く、遅れて広がった。次の瞬間、羽音が重なり、黒い影がいくつも飛び立つ。鳥だ。ねぐらを追われたのか、方向も揃わないまま、ばらばらに夜空へ散っていく。
視線を戻した先で、ありえない光景が目に飛び込んできた。一本の大木が、一人の人影によって、持ち上げられていた。人の背丈の何倍もあるそれを、その誰かが根元を掴み、常識では考えられない力で横薙ぎに振り回した。
連続する重く鈍い破壊音。
布が裂け、骨組みが砕け、並んでいたテントが次々と潰れていく。悲鳴が上がり、逃げ遅れた人影が地面に転がる。ランタンが倒れ、光が乱れた。
倒壊したテントの中には、動かない影が見えた。呻き声だったのかもしれない音が、遅れて届いた。
私は、ポケットから取り出した双眼鏡で、その人物の姿を見た。ランタンの光を反射し、白いホッケーマスクが浮かび上がる。喉の奥が冷えた。
「……殺人鬼」
声に出したつもりはなかった。けれど、その言葉は頭の中ではっきりと形になっていた。
逃げるべきだった。森の中に戻れば、見つからない可能性もあった。
それなのに――
「やめなさい!」
気づいたときには、声を張り上げていた。考えたわけではない。止めようと決めたわけでもない。ただ、口が先に動いた。自分でも驚くほど、大きな声だった。
男がこちらを向いた。
ランタンの光が揺れ、白いマスクがこちらを向く。その奥に、視線の気配だけがあった。
「あなたが今、ニュースになっている殺人鬼ね! どうしてこんなことをするの!」
声が、森に響いた。
言い終わる前から、嫌な予感が背中を這い上がる。
次の瞬間、大気が歪んだ。大木の枝葉が迫り、視界が横に流れる。衝撃。身体が宙に浮き、地面に叩きつけられる。息が一瞬、抜けた。
枝や葉が顔や肩に当たり、視界が暗くなる。
皮膚が裂けた感触はあったが、痛みはなかった。
――ああ、まただ。
恐怖よりも先に、どこか冷めた認識が浮かぶ。致命傷ではない。たぶん、このくらいなら問題はない。
視界の端で、影が動いた。
「嬢ちゃん。ちょいと勇気を出して俺を止めようとしたんだろうが、そりゃあ蛮勇ってもんだ」
低く、乾いた声だった。
「象を相手に素手で挑む人間など、いないだろうがよ。」
……この声。
身体の奥から、熱が広がっていく。
淡い緑色の光が、自分の身体を薄く包むのが分かった。裂けていたはずの皮膚は、すでに元に戻りつつある。
私は、体のどこにも不調がないことを確認しながら、ゆっくりと立ち上がった。
男との距離を、数歩、詰める。
「やっぱり、あなたは・・・!」
喉が、わずかに震えた。
「そんなマスクなんかで、私の目がごまかせるとでも思いましたか?」
男の動きが止まった。
数秒、何も起きない。夜の空気だけが張りつめる。
やがて、舌打ちするような音がした。
「チッ……おまえかよ」
声の調子が、わずかに変わった。さっきまでの高揚が、急に冷めたような感じ。
「いいか、分かっているだろうが、おまえの能力は、俺を殺せるようなもんじゃない」
「俺みてぇな危険人物に関わるのはもう、やめとけ」
男の姿勢が低くなる。地面を踏みしめる足に、異様な緊張が集まっていくのが分かった。
「待ちなさい!」
声を張り上げた瞬間、空気が弾けた。男の身体が、一気に宙へ跳ね上がる。
「待って……!」
届くはずもなかった。驚異的な跳躍力で、男は一瞬のうちに距離を引き、次の瞬間には夜の闇へ溶けるように消えていた。
キャンプ場には混乱だけが残った。泣き声と、助けを求める声が、夜の闇に散らばっていた。
私は落ちていたタオルを拾い、顔を隠した。名前も事情も告げずに、潰れたテントの間を回る。淡い緑色の光が、闇の中で何度も滲んだ。
どれくらい時間が経ったのかは分からない。気づいたときには、遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
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不屈の少女 第六章
翌朝、テレビの音が、家の中に流れていた。
いつもと変わらない朝だった。叔母は台所に立ち、湯気の上がる鍋をかき混ぜている。食器の触れ合う音が、規則正しく響く。
画面には、ニュース番組が映っていた。天気、交通情報、そのあとに、事件。
『――未明、◯◯県内で発生した殺傷事件について、続報です』
映し出されたのは、見知らぬ街だった。住宅地。規制線。ぼかされた地面。現場の空気は、昨日の森とはまったく違う。それでも、説明の言葉は、どこか重なって聞こえた。
『目撃者によりますと、犯人は突然現れ、凶器を振るった後、姿を消したとのことです』
叔母は、ため息のような息をついた。
「物騒ね……最近、多いわね」
それだけ言って、テレビから目を離した。
画面の端に、目撃者の証言をもとに作られた犯人のイメージが表示された。
白い、無機質なマスク。喉の奥が、ひやりと冷えた。
――まただ。
昨日のキャンプ場のことではない。それはわかっていた。キャンプ場で死者は出ていない。重傷者もいない。救急車が来たときには、誰もが「偶然助かった」状態になっていた。誰も、あの男を見ていない。だから、この事件と、昨日の出来事は、無関係だ。
テレビの中では、そう扱われている。それでも、胸の奥では、はっきりとした感覚が残っていた。
――私は、止められなかった。
考えても意味はないと分かっているのに、思考だけが、同じところを回り続ける。
『警察は、同一犯による連続事件の可能性も視野に――』
叔母は、湯飲みを置いて、何気ない声で言った。
「無理しないでね。今日は、家にいるんでしょう?」
私は、小さく頷いた。
けれど、昨日の夜、逃げていった背中が、頭から離れなかった。
――次は、どこだ。
その問いだけが、胸の奥に残った。
* * *
昼を少し過ぎた頃、チャイムが鳴った。
叔母は「はいはい」と短く応えて、玄関へ向かう。私は居間に残り、テレビを消した。
ドアの向こうから、聞き覚えのある低い声がする。
「こんにちは。少し、進捗のご報告をと思いまして」
数分後、叔母に呼ばれた。居間に立っていたのは、以前と同じ男だった。細身で背が高く、白髪の混じった髪。縁のない四角い眼鏡。スーツの胸元には、変わらず金色の小さなバッジがついている。
「お久しぶりです」
男は軽く頭を下げた。視線はまず叔母に向けられ、次に、私のほうへ移る。その動きに、無駄がなかった。
「形式的な確認がいくつかありまして。今後の生活についての整理です」
「それと――」
言葉が、わずかに区切られた。
「最近、何か変わったことはありませんでしたか」
叔母は首をかしげる。
「変わったこと……ですか?」
「ええ。体調や、生活の様子などです。大きなことでなくて構いません」
叔母は少し考え、
「特には……静かに過ごしていますよね?」
と、こちらを見た。私は、曖昧に頷いた。
男は、その反応を逃さなかったようだった。
「そうですか」
それだけ言って、男は頷く。けれど、視線はまだ、私から離れなかった。
「実は、もう一つだけ」
声の調子は、変わらない。
「選択肢のお話です。今すぐ決める必要はありませんが、知っておいて損はない」
叔母が、少し姿勢を正した。
「選択肢?」
「はい」
男は、鞄から小さな布袋を取り出した。掌に収まるほどの大きさだ。
「これは、お守りのようなものです。持っているだけで構いません」
男はそれを、机の上にそっと置いた。
特別な装飾はない。ただ、妙に目を引く存在感があった。
「もし、どうしても自分で何かを変えたいと思ったとき」
「どうしても、放っておけないことができたとき」
男の視線が、私を捉える。
「力を使う場所があります」
「……正確には、力を使う“機会”です」
叔母が口を開こうとしたが、男はやんわりと制した。
「詳しい説明は、本人にだけ。必要になったら、自然と分かります」
その言い方が、不思議と不自然ではなかった。
「無理に勧めるつもりはありません」
男は、淡々と言った。
「ただ、あなたのような人には――選べる道がある、ということだけは、伝えておきたかった」
私は、机の上の布袋から目を離せなかった。
「今日は、それをお伝えしに来ました」
男は立ち上がり、再び軽く頭を下げた。
玄関のドアが閉まる音がして、家の中に、元の静けさが戻る。
机の上には、小さな布袋だけが残っていた。
* * *
その夜、私は自分の部屋にいた。
昼間にもらった布袋を前にして、中に何が入っているのか考える。重さもなく、音もしない。「お守り」と言われた言葉だけが、妙に引っかかっていた。
白いマスク。逃げていった背中。ニュースの映像。
――「放っておけないことができたとき」。
私はため息をひとつついて、布袋に手を伸ばした。紐をほどいた、その瞬間、空気がわずかにずれた。
「おっ、やっと開けた!」
間の抜けた声が、すぐそばで弾けた。
思考より先に身体が強張り、視線を向ける。
銀色の猫が、透明な四枚羽をゆったりと動かしながら、宙に浮かんでいた。
猫のような生物。体毛は柔らかそうで、四本のしっぽがゆるやかに揺れている。瞳は金色と水色のオッドアイで、金色の側の目は、同じく金色の仮面のような装飾で縁取られていた。身長よりも長い杖を携えており、杖の先端には赤く大きな宝石が嵌め込まれている。宝石は、妖しげな光を静かに湛えていた。
その姿から、禍々しさや敵意のようなものは感じられない。
どちらかといえば、作り物めいた整い方をした、猫型の妖精という印象だった。私は心の中で、とりあえず猫妖精と呼ぶことにした。
「安心していいよ。いきなり何かされるわけじゃないから」
軽い調子の声だった。
けれど、その声がこの空間にあること自体が、すでに現実離れしていた。
「さっきの袋、あれは“合図”みたいなものなんだ」
猫妖精は、あっさりと言った。
「君が自分で開けた。だから、僕が来たってわけ」
私は、机の上の布袋を見下ろした。
「……あなたは、何者ですか」
「案内役、かな。呼び方は何でもいいよ。で、本題」
猫妖精は宙で小さく姿勢を正す。
「今、ちょっとした "催し" をやっていてね。力を持っている人が集まって、いろいろ競うんだよ。参加者には、ちゃんと見返りもある」
杖の先の宝石が、わずかに光を反射した。
「僕たちの世界の、特別な品だよ。普通の方法じゃ、絶対に手に入らない。きっと君の目的にも、役に立つと思う」
私は少しだけ黙った。
「……参加しなかったら?」
「その場合は、何も起きない」
猫妖精は即答した。
「ここで見たものも、聞いた話も、全部なかったことになる。君は、いつもの生活に戻る。それだけだよ」
私は、目を伏せた。
「今すぐ決めなくていいよ」
猫妖精は、少しだけ声を和らげた。
「まずは、見てから。雰囲気とか、やってることとか。それを見た上で、参加するかどうかを決めればいい」
沈黙が落ちる。
机の上には、空になった布袋。頭の中には、繰り返されるニュースの映像。
「……見るだけ、なら」
私は、そう言った。
猫妖精は、満足そうにしっぽを揺らす。
「それで十分。じゃあ、案内するね」
一瞬、視界が白く歪む。そして私は、白い部屋にいた。
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不屈の少女 第七章
八畳ほどの、白い部屋だった。壁も床も天井も、余計な装飾はなく、均一な色で統一されている。壁際にはセミダブルほどのベッドが置かれ、その脇に小さな机と、タブレットのような端末が並んでいた。反対側の壁には、洗面所に続いていそうなスライド式のドアがある。
中央には何もない。生活に必要なものだけが置かれた、簡素な空間だった。
ただ一つ、異質な存在があった。
部屋の奥、天井から吊り下げられた巨大なモニターだ。生活空間には明らかに過剰な大きさで、ここがただの「部屋」ではないことを、否応なく主張していた。
「ここが、君の部屋になるよ」
宙に浮かんだ猫妖精が、いつもの軽い調子で言った。
「今は最低限のものしか置いてないけど、必要な物があれば、あの端末に入力してくれればいいから。まあ……銃とか、変なものは却下だけどね」
冗談めいた口調だったが、私はまだ、この状況をどう受け止めればいいのか決めかねていた。
拉致されたわけではない。自分で選んだ。けれど、その結果として立たされているこの場所は、現実感が薄すぎる。
「あ、立ったままもなんだし、とりあえず座って?」
促されるまま、私はベッドに腰を下ろした。
「説明するより、見てもらったほうが早い。」
猫妖精は、軽く杖を振って、モニターを示す。
「君が何を選ぶことになるのか――その"中身"をね」
モニターが静かに向きを変え、こちらを正面に捉えた。
同時に、部屋の照明が落ちる。
白い部屋が、闇に沈む。
そして、巨大な画面に、映像が映し出された。
* * *
天井の高い、巨大な廃工場。剥き出しの鉄骨が格子状に走り、錆びたクレーンや崩れかけの足場が、闇の中に影を落としている。床一面には薄緑がかった霧が立ち込め、ところどころに設置された投光器の光が、その霧を切り裂くように照らしていた。
静まり返った空気。
機械はすべて停止しているはずなのに、どこかで金属が軋むような、低い残響が続いている。人の気配はない。けれど、完全な無人ではないことだけが、はっきりと伝わってきた。
そのとき、空間の中央上空に、異質なものが滑り込んできた。
淡く金色に光る白い羽根がいくつも取り付けられた、白い光沢を放つ浮遊台座。羽根は機械仕掛けのように規則正しく羽ばたいているが、その動きは驚くほど滑らかで、まるで空気そのものに支えられているかのようだった。
――人間の技術ではない。
それだけは、見た瞬間に分かった。
台座の上に立っていたのは、どこかショーガールを思わせる艶やかな女性だった。
赤紫のドレス風トップスが肩を大胆に露出し、編み上げの黒いコルセットが腰のラインを強調している。脚にはぴたりと張り付いたハイソックスとヒール付きのブーツ。顔には装飾的な仮面をつけ、大ぶりの花飾りが髪に揺れていた。
工場の無機質な景色には、あまりにも不釣り合いな、妙に目を引く姿だった。
女性は楽しげな笑みを浮かべ、宙に浮かせたマイクを、まるで玩具のようにくるくると回す。そして、大きく息を吸い込み――
「やっホー! 画面ノ前ノみんなーっ! 待った? 待ったよね!?
それじゃあ今夜もいっちゃオう! 狂気と興奮ノ、ショータイムッ!!」
イントネーションに妙な癖が混ざっていたが、甲高く、よく通る声が、工場の天井に反響する。
静まり返っていた空間が、その一声で色を変えた。
「ルールは超シンプル! バトロワ形式で、最後に立ってたモん勝ち! ここにいる奴らは全員敵! 親友だろうが恋人だろうが関係なしッ! 使えるモんは歯でも拳でも異能でも、何でもアリッ!!」
両手を大きく広げ、錆びた鉄骨と暗い天井を指し示す。
「さあさあ、こノ朽ちた工場ノど真ん中で!――狂逸ノマスカレイド、開宴っ!! 戦え異能者たち! 己ノ欲望ト生き様ト、魂ヲさらけ出せええっ!!」
その叫びが響き渡ると同時に、霧の中に配置された照明が次々と灯る。映像が切り替わり、工場内の各所に立つ三つの人影が、順に映し出されていった。
工場の中央に立っているのは、一人の女だった。
年齢は二十代半ばに見える。細身で、どこか気だるげに立っている。癖のある長い髪が、まとめられないまま背中に落ち、動くたびに不規則に揺れた。
顔は、黒い布で覆われていた。舞台裏で黒子が使うものに似ているが、質感はずっと柔らかい。薄手で、光をわずかに吸い、目元から鼻のあたりを包むように垂れている。布越しに、輪郭や気配だけが伝わり、表情は読み取れない。そして、その服装が、明らかに場違いだった。
黒いネグリジェ。レースの縁取りが施された、室内用の寝間着だ。肌を覆う布は薄く、体の線を隠しきれていない。それが工場の無機質な景色の中では、異様なほど浮いて見えた。
彼女よりも十数メートル離れた位置に、二人の人物が配置されていた。
一人目は、明らかに前に出る役割の男だった。
体格は大きく、肩幅が広い。無駄な脂肪はなく、長く身体を使ってきた人間の厚みがある。二十代後半から三十前後に見えた。服装は実用一点張りだった。厚手のジャケットの下には防刃ベストのようなものを仕込み、肘や膝には簡易的なプロテクターが固定されている。見た目は無骨だけれど、動きに無駄がない。重さを理解した上で、使い慣れている身体だった。
顔を覆っているのは、溶接用の防護面を思わせる、角ばった形状の仮面だ。表面には細かなヒビのような模様が走っており、最初から壊れかけているようにも見えた。
もう一人は、対照的な印象の女だった。
細身で、背は高くない。動きは軽く、足取りに迷いがない。年齢は二十歳前後、学生といっても違和感のない雰囲気だった。服装は、長めのコート。黒を基調としているが、裏地や裾に、歪んだ幾何学模様が縫い込まれている。静止していれば目立たないが、動くと模様がずれるように見える。
顔には、左右非対称の、歪んだ仮面をつけていた。片方の目の穴は大きく、もう片方は細い。真正面から見ると無表情だけれど、角度を変えると、笑っているようにも、歪んでいるようにも見える。
逃げ道や、拾えるものを探しているのだろう。周囲を見回す視線は速く、それでいて落ち着いている。
「――イッツ・ショウタイム!」
高い声が、工場の天井に反響した。
黒いネグリジェの女が、ゆっくりと一歩、後ろへと下がった。ネグリジェの裾が床をなぞると、女の足元から、黒い影が滲むように広がる。空気が沈み、重さを持った何かが引きずり出される感覚が、画面越しにも伝わってきた。
最初に姿を現したのは、痩せた男のような異形だった。
人間のそれとは違う、不自然に長い手足。木製の面をつけ、ぼろ切れのような青いマントを羽織っている。手には細長い槍。穂先は鈍く濁った色をしていた。
続いて、もう一体。
大柄な女のような姿をした異形だった。背丈は人間より頭一つ高く、肉感的な体躯を持つ。頭部には山羊のような角が生えている。腰には小さな蝙蝠の羽がついているが、地面から離れる様子はない。片手を上に上げると、人差し指の指先に淡い光が集まった。
二つの禍々しい存在。
私は、それらを――悪魔と呼ぶことにした。正しい呼び名かは分からない。ただ、そうとしか思えなかった。
黒いネグリジェの女はそれらを出現させたあと、さらに数歩下がり、そして、動かなかった。戦う位置を、明確に譲った。
角ばった防護面の男が動いた。大きく一歩踏み込み、地面を強く蹴って前へ出る。
男が両腕を突き出すと、正面に、青白い光の壁が立ち上がった。平面に近い形状で、薄く発光しながら、掌に固定されている。
痩せた悪魔が、ためらいなく槍を突き出す。穂先がその光の壁にぶつかり、鈍い衝撃音が工場内に響いた。衝撃は壁越しに伝わり、男の身体を後ろへとのけぞらせたが、男は歯を食いしばり、どの場に踏みとどまった。
そのとき、防護面の男の様子がおかしいことに気づいた。青白い壁を支えている腕が、じわじわと色を変えていく。光の反射とは違う、濁った色合いが、手首のあたりから広がっている。
男はそれでも壁を張り続けていたが、動きは確実に鈍っていた。
その背後で、歪んだ仮面の女が動いていた。逆さに置かれた段ボール箱を蹴り倒し、中身を確かめる。拾い上げたのは拳銃だった。
次の瞬間、画面が揺らいだ。女を中心に、工場の床が波打つようにうねり、壁の位置がわずかにずれる。痩せた悪魔と、大柄な女の悪魔が、一瞬だけ動きを止める。目に映るものと、立っている場所が噛み合っていない。
銃声が響いた。乾いた音と同時に、大柄な女の悪魔の肩口に火花が散る。続けて二発、三発。壁に遮られて射線が通らないはずの位置から放たれた弾丸が、確実に肉を削っていた。
大柄な女の悪魔も、指先から桃色の光弾を飛ばして応戦するが、そちらは壁に当たり、消えた。あるはずの壁と、ないはずの壁が、食い違っている。女の悪魔は、その区別がついていないようだった。
その間も、前線は崩れていなかった。防護面の男は片膝をつきながら、青白く発光する壁を正面に張り付かせている。壁は何度も槍の衝撃を受け、そのたびに淡く揺れた。壁を支える腕はすっかり変色して震え、呼吸は荒い。それでも、男は立ち続けていた。
再び、銃声。今度は大柄の女の悪魔の胴体に、深く撃ち込まれる。大きな身体がよろめき、後ずさった。その瞬間、防護面の男の構えが、ほんの一瞬だけ緩んだ。
――勝った。
そう思ったのだと、画面越しにも分かった。
けれど、その直後だった。
女の悪魔が、よろめきながらも両腕を前に突き出す。肘を引き、肩を落とし、両手の人差し指を揃える――明らかに、これまでとは違う構えだった。
指先に集まった光は、輪郭を持たない。脈を打つように揺れ、空間そのものを歪ませながら、そこに留まっている。次の瞬間、その光が放たれた。
空気を引きずるような曖昧な印象を残しながら突き進み、遮るはずの壁も壊さず――すり抜けていく。そして、銃を構えていた、歪んだ仮面の女の身体に、触れた。
触れた瞬間、何かが剥がれ落ちた。
女の周囲に広がっていた違和感が、細い糸のように引き抜かれていく。波打っていた床が静まり、ずれていた壁が、本来の位置へと戻っていった。工場の景色が、急速に整っていく。
同時に、女の身体から、淡い光の塊が引き離された。それは撃ち込まれた光弾の軌道をなぞるように反転し、大柄な女の悪魔のもとへと戻っていく。
大柄な女の悪魔は口を開き、戻ってきた光を、そのまま飲み込んだ。
次の瞬間、悪魔の身体が大きく脈打った。撃たれた傷が塞がり、筋肉の輪郭が際立つ。腰の小さな羽が、はっきりとした形を持って広がった。
直後に指先から放たれた光弾は、これまでとは比べものにならなかった。
片膝をつきながらも銃を構えていた、歪んだ仮面の女は、反応できなかった。射線を隠す幻の障害物は、すでにない。光弾が直撃し、身体が後方へ弾き飛ばされる。床に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
その光景を見た瞬間、防護面の男の力が抜けた。変色しきった腕が崩れ、正面に張り付いていた青白い壁が、音もなく消える。
痩せた悪魔の槍が、最後に一度だけ振るわれた。男の身体が床に倒れ、動かなくなる。
工場内に、動く人影はなくなった。
中央には、黒いネグリジェの女だけが立っている。顔を覆う布に隠された表情は分からない。けれど、その存在だけが、はっきりと画面に残っていた。
* * *
暗転。工場の映像はそこで途切れ、モニターには何も映らなくなった。残っているのは、かすかな残像と、耳の奥にこびりつくような静けさだけだった。
「――と、まあ、こんなわけだよ」
軽い調子の声が、背後から割り込んでくる。
「今の映像は、よく覚えておくといい。君がこれから戦う相手の能力が、ああして事前に分かるなんて、大サービスなんだからね」
猫妖精が、尻尾を揺らしながらこちらを見ていた。口元は笑っているが、その目は、こちらの反応を逃さず拾おうとしている。
「これが、異能マスカレイド。僕たちの女王様が、ある日思いつきで始めた、闇の興行さ」
肩をすくめるような仕草。
「君たちみたいな能力者を集めて、殺し合わせる。生き残った奴が勝ち。負けたら――まあ、映像の通りだね」
言い終えると、猫妖精は、手にした杖をこちらに向けた。その目は、もう冗談めいた色をしていない。
「それで――どうする? 参加する?」
間を置かずに、続ける。
「勝てれば、きっと君に必要なアイテムを与えられると約束しよう。君みたいな能力者には、悪くない話だと思うけど?」
モニターが再び光り、今度は一枚の顔写真が映し出された。
ツンツンした赤毛の髪が特徴的な少年だった。高校生くらいに見える年齢で、少し強張った表情をしている。
「君には、この少年と組んでもらうつもりだよ。そして――さっき映っていた、あの女と戦ってもらう」
私は、もう一度、暗くなった画面を見た。
さっきまで映っていた光景――人が倒れ、命が消えていく場面が、頭の中に残っている。
けれど、強い動揺はなかった。
もし自分が参加したとしても、死ぬことはない。私の能力は、そういう種類のものだと分かっている。それよりも、気になったのは、モニターに映る赤毛の少年のほうだった。
彼は、死ぬかもしれない。あんな場所では、守られなければ、簡単に。
そして、もう一つ。映像に映っていた、黒いネグリジェの女の姿を思い出す。
自分は一歩引いた場所に立ち、他人に戦わせる。自分の手は汚さず、結果だけを眺める。その距離感が、どうにも気に食わなかった。あんな女を止められなくて、誰かを止められるだろうか。
白いホッケーマスクが頭をよぎる。
また止められなかったら。そんなことは、もう嫌だった。
「……参加する」
私がそう言うと、猫妖精は満足そうに目を細めた。
「いいね。そうこなくっちゃ」
軽い拍手。
「それじゃあ、準備を始めよう。君と、あの少年のためにね」
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不屈の少女 第八章
控室に入ると、そこは無音だった。
壁は灰色がかった白で、床には薄い金属板の継ぎ目が走っていた。天井の照明は必要最低限の明るさしかない。
部屋の中央には金属製の机があり、その上に、謎のお面が二つ並んでいた。一つは縁日にでも売っていそうな狐面。もう一つはシンプルな白面だった。空気は澄んでいるが、落ち着かない。ここが戦いの直前だということだけが、はっきりと分かる。
学生服の少年が一人、壁際に立っていた。
特徴的なツンツンした赤毛。写真で見せられた顔と一致している。実物を見ると、よく鍛えられているのか、思ったよりも筋肉質だった。
少年は瞑想でもしていたのか目を瞑っていたが、私の気配に気づいたようで目を開ける。
「お、来たか。あんたが、今日の俺の相棒になるんだってな」
人懐っこい声だった。
「こんな所だが、まあ、よろしく頼むわ」
軽い調子だけれど、目はよく動いている。緊張していないわけではなさそうだった。少年はこちらを一瞬見回すと、少し声を落とした。
「あんな映像を見せられたからな、流石に油断は出来ねぇよ。それで、あんたも何か、できるんだろう? とりあえず、お互いの能力の擦り合わせといこうぜ」
冗談めいた口調とは裏腹に、案外しっかりと考えているらしい。私も特に、異論はなかった。
「回復ができます」
「回復? へえ、ゲームのヒーラーって感じ?」
少年はよくわからない用語を交えて、少しおどけたように言う。
「ええ、腕がなくなろうが足がなくなろうが回復できます」
「ですから」
私は、一歩少年に近づき、私よりも頭半個ぶんほど高い目を見つめて言う。
「あなたは、前に出なくていいです。私に任せて、あなたは後ろにいてください」
そう、言い切った。
私なら、攻撃を受けたところですぐに治る。だから、私がこの少年を守らなければいけないだろう。
少年が若干引く。
「おいおい、ヒーラーが前に出るなんておかしいだろ。いや、俺が前に出るって」
少年が面倒なことを言い出した。能力的にこれが勝算が高いのに。
「...じゃあ、あなたは何ができるんです?」
これは確かに、確認しとかなければいけない。けれど、私より生存に特化した能力があるとも思えなかった。
「武器生成能力だよ」
少年が、なぜか若干顔を顰めつつ言う。能力について、何か複雑な思いがあるように感じ取られた。
「武器っていっても、結構色々出せるぜ。剣でも盾でもナイフでも。なんなら銃だっていける。」
「俺が武器だと認識しているものなら、大体いけると思うぜ」
思ったよりも便利そうな能力だった。これなら、私がちゃんと守れば、勝てると思う。
「じゃあ、やっぱり私が前に出たほうがいいでしょう。あなたに剣とか盾を出してもらって、私がそれで戦うから、あなたは後ろから、銃とかで攻撃してください」
うん。これでいい。
「おいおい。それじゃあの映像と同じだろが。あんたもあれを見たんだろ? 防護面の男と歪んだ仮面の女が戦ってたやつ。」
「俺はもっと色々できるんだって。それにこれでも結構場慣れしてるんだ。大体、女の子に守られっぱなしなんて、ヒーローとしてダメだろ」
は? ヒーロー?
「なんですかそれ」
「俺はヒーローなんだよ。ここには、俺が止めなくちゃいけない人が参加しているはずなんだ。それに、こんなくだらない催しなんて、俺がぶっ潰してやるぜ!」
少年が、謎に息巻く。何だか、面倒な妄想に囚われているらしい。
「いいから、あなたは私を盾にして、後ろにいてください!」
「いいや、俺が前に出るから、あんたは俺が怪我した時に回復してくれればいいって!」
その時、控室の扉が開いた。
工場を思わせる、細長く無骨な金属の通路が続いている。天井から、青白いライトがその通路を照らし、薄緑色の冷えた霧が、微かに流れてきた。
「...時間だな。」
少年が、机の上にあった狐面を手に取って、扉へと向かう。
私もまた、残された白面を手に取った。
* * *
「さあさあ、画面ノ前ノみんなーっ! おまたせぇー!」
上を見上げると、工場の天井は高く、空中に浮かぶ白い浮遊台座が見える。その上から、ショーガールを思わせる女性の声が響いた。
映像で聞いたものと同じ、高くてよく通るが、どこかイントネーションのズレた声。けばけばしい衣装も、装飾的な仮面も、記憶と違わない。
「今日ノ挑戦者は、こちらのペア!」
派手な身振りで、こちらを指し示す。
「片方は、何を考えてるかわからない女ノ子! もう片方は、やる気まンまンの少年クン!」
笑う。
「さあ、二人とモ! 触れず、近づかず、それでも全部終わらせる――静かすぎる怪物、"傍観の魔王"! 今夜の主役に、喧嘩売る覚悟はあるかあー!?」
少年が舌打ちした。
「……始まる前から、気分悪くなるな」
私は、少年の袖を軽く引き、正面を見据えたまま言った。
「合図が出たら、すぐに剣と盾を出してください。あなたは下がって。前に出る理由が、あなたにはない」
少年が、こちらを見た。
「いや、それは――」
「時間がありません」
語気を強める。
「私が戦います。あなたは銃で、援護してください」
一瞬、間が空いた。少年は何か言いかけたが、結局、肩をすくめた。
「……分かったよ。ほんとに無茶だな、あんた」
細部を詰める時間はなかったが、最低限の方針は決まった。
「――イッツ・ショウタイム!!」
照明が一斉に落ち、次の瞬間、工場全体が白く照らし出された。
黒いネグリジェの女が、一歩、後ろへ下がる。
その足元から影が滲み出すよりも僅かに早く、少年の両手に強い力の発動を感じた。空間が一瞬歪み、小ぶりだけれど、厚みのある丸盾が現れる。
よし、言う通りにしてくれた――次の瞬間だった。
パァン!
予期せぬ、強烈な破裂音が響いた。黒いネグリジェの女の片足から血が飛び散り、片膝をつく。
見ると少年の片手には、拳銃が握られていた。
乾いた銃声がもう一度響く。
けれど、黒いネグリジェの女は、ほとんど反射のように横へ転がった。弾丸はその背後をかすめ、床を叩いて火花を散らす。
転がる女の影が、床に落ちた染みのように粘ついて広がり、やがて形を持ち――二体の悪魔が、這い出るように顕現した。
痩せた悪魔と、大柄な女の悪魔。それは、映像で見たものと同じだった。
黒いネグリジェの女は、すかさず物陰に隠れ、見えなくなってしまった。
「ちっ……っ!仕留め損ねた!」
痩せた悪魔は槍を引きずるように構え、大柄な女の悪魔は、ゆっくりと指先に光を集め始めている。完全に、こちらを足止めする配置だった。
少年が一歩踏み出しかけるが、私はその前に出た。少年の独断に口出ししそうになったが、判断は悪くない。余計なことは言わなくていいだろう。代わりに、視線に力を込める。
「来ます。剣を」
言い切る。
一瞬の逡巡のあと、少年は舌打ちし、両手に力を込めた。再び空間が歪み、飾り気のない、細身の剣が出現した。
「下がって」
それだけ言って、私は剣を受け取った。
細身とはいえ、ずっしりとした重みが、手に伝わる。想像以上に、ちゃんとした武器だった。
間を置かず、痩せた悪魔が踏み込んできた。槍の穂先が、迷いなくこちらへ突き出された。私は盾を構え、正面から受け止める。
鈍い衝撃。骨に響く感覚が腕を打った。
盾越しに受け止めたはずなのに、穂先の嫌な気配だけが、皮膚の上をなぞったような錯覚を残す。
――触れさせたら、まずい。
そう直感するには、十分だった。私は半歩だけ踏み込み、槍の穂先を横へ流す。次の突きが来る前に、剣を振った。
金属が擦れる音。刃は槍の柄をかすめ、悪魔の体勢をわずかに崩す。
痩せた悪魔は舌打ちするような気配を見せ、距離を取った。思ったよりも慎重だ。無闇に突っ込んでくる相手ではない。
その間に、背後で乾いた発砲音が響いた。少年の銃だ。弾丸が痩せた悪魔の肩を掠め、赤紫の血が飛び散る。
致命傷にはならないが、牽制としては十分だった。私は視界の端で少年の位置を僅かに確認した後、再び前へ出た。
今度は、大柄な女の悪魔が動く。
指先に集まっていた光が弾け、弾丸のようにこちらへ飛んでくる。私は歯を食いしばり足を止め、盾で光弾を受けて、横に逸らした。すかさず次の一射が飛んできた。反射的に盾を戻して防いだが、敵は大柄な女の悪魔だけではない。
痩せた悪魔の槍が、盾の縁を滑り、穂先が、前腕をかすめた。
浅い。傷と呼ぶほどでもない。それでも、嫌な感触があった。冷たく、じわりと広がるような、まとわりつく感覚。
――毒。
即座に分かった。けれど、致命的ではない。
私は一歩下がり、呼吸を整える。体内で何かが巻き戻る感覚が走り、薄緑の発光とともに熱が引く。重さが抜ける。皮膚の下で、異物が押し出されていく。腕を動かすと、違和感はもう、ほとんどない。
……問題ない。
毒の脅威よりも、回復のほうが、早い。多少掠ったところで、戦闘に支障は出ない。私はそう判断し、再び前に出た。
痩せた悪魔が、距離を取る。
大柄な女の悪魔は、再び指先に光を集め始めたけれど、少年の銃声が、間を縫うように響き、女の悪魔の肩をかすめて、中断された。
――いける。
この程度なら、押し切れる。
戦いは、こちらのペースだった。ちらりと横目で見ると、少年も機動隊の盾のようなものを構え、大柄な女の悪魔との間合いを崩さずに撃ち合っていた。女の悪魔の傷は確実に増えており、苦痛に歪む表情も見てとれた。
不意に、女の悪魔の動きが止まった。撃ち合いのリズムが、そこで一度、途切れる。
両腕を前に突き出して肘を引き、身体をわずかに捻る。両手を組み、人差し指を揃えて突き出すと、そこに、空間の歪みを伴う光が凝縮された。
「来るぞ、例のやつだ!」
私は即座に横へ跳ぶ。少年も同時に距離を取る。
女の悪魔の指を離れた、不安定な光は空を切り、何もない空間を突き進み、霧の中に消えた。
「外れ。残念だったな」
少年の声には、余裕があった。事前に見せられた映像。その情報が、確実に生きている。
そう思った、その時だった。
――衝撃。
音は、あとから来た。爆発でも破裂でもない。ただ、何かが "到達した" という事実だけが、先に身体を打ち抜いた。
右腕の感覚が――消えた。
剣の重みが、唐突に失われる。遅れて、床に何かが転がる鈍い音がした。
自分の腕だった。
肘から先が、きれいに吹き飛ばされている。断面から血が噴き上がり、霧の中に赤が滲む。
痛みはわからない。あるのは、圧倒的な違和感だけだ。
反射的に一歩下がった、その瞬間、身体の内側で何かが強く巻き戻る。薄緑の光が弾け、肉と骨が音を立てて再生していく。
数秒も経たず、腕は元に戻った。
――治る。
分かっていた。それでも、息が詰まる。
今の一撃。防御も、回避も、判断も――何ひとつ、間に合っていない。
顔を上げた先に、異形の巨体が佇んでいる。
人間の倍近い身長。薄茶色の体毛に覆われた、岩のような肩と胸。その背には、白いマントが揺れている。両腕の前腕には、分厚い金属の手甲がはめられており、湾曲した刃が2本、伸びている。あれは、鉤爪というものだろうか。見るからに凶悪な武器だった。
狼男。そう呼ぶしかない姿だった。
獣の赤い瞳には、こちらを敵として見据える知性と殺意が宿っていた。
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不屈の少女 第九章(完)
狼男が踏み込むたび、床が低く鳴った。
薄緑の霧が足元から押し流され、その巨体の進路だけが、不自然なほどはっきりと視界に残る。痩せた悪魔と女の悪魔は、その背後へと自然に下がっていた。命令されたわけではない。ただ、この場で最も危険な存在が誰かを、理解している動きだった。
私は治った腕で剣を拾い、盾を構え直す。腕は動く。剣も振れる。回復も、まだ追いついている。けれど、呼吸を整えようとした瞬間、胸の奥に微かな重さが残っていることに気づいた。治るたびに、身体の内側から何かが削れていくような感覚が、はっきりと残る。
狼男が低く唸り、次の瞬間、視界が歪んだ。
突進。
質量そのものが叩きつけられるような衝撃が来る。
盾で受けたが、完全には止めきれない。身体が弾き飛ばされ、背中から床に叩きつけられる。すぐに肉と骨の損傷が巻き戻り、再生する。
治る。けれど、立ち上がるまでの一拍が、これまでよりわずかに長い。
「前に出すぎだ!」
背後から飛んできた少年の声に、私は眉をひそめつつ、一歩下がる。今の間合いは悪くなかったはずだ――そう反論しかけたが、その瞬間、狼男の鉄爪が、さっき私が立っていた空間を薙いだ。半拍。ほんの僅かな差で、致命傷になる位置だった。
――ああ、そうか。
私は何も言わず、もう半歩、位置を下げる。狼男の踏み込みが空を切り、同時に背後から銃声が響いた。少年の弾丸が肩口をかすめ、狼男の注意が一瞬そちらへ逸れる。その隙を逃さず、私は踏み込み、剣を振る。刃は浅く腹部を裂いただけだけれど、確実に通った。
狼男の背後から光が弾ける。大柄な女の悪魔が放った、あの歪んだ光だ。その瞬間、少年の声が飛んだ。
「右!」
反射的に身体を捻る。歪んだ光が、盾の縁をかすめて通り過ぎていった。当たっていない。
少年の判断が、速い。
戦いは続く。痩せた悪魔の槍を受け、流し、斬る。踏み込みの角度がわずかに遅れ、盾の内側をすり抜けた穂先が腹部を深く抉った。
それでも、回復が追いつく。そのたびに、身体の奥にある何かが確実に削れていく。まだ戦える。けれど、無限ではない。その事実が、現実として立ち上がってくる。
そして、狼男は私から興味を失ったように、向きを変えた。
強く踏み込み、その巨体が少年へと向かって跳んだ。
「避けてっ!」
思わず声が出た。
けれど、少年は逃げなかった。避けるのではなく、足を踏みしめる。少年の持つ盾が、形を変えた。平滑だった表面から、無数の鋭い棘がせり出す。
狼男の鉄爪が、正面から叩き込まれる。衝突音と同時に、別の音が重なった。肉を貫く、鈍い音。盾の棘が、狼男の前腕に深く突き刺さっていた。叩き潰すはずだった一撃は、噛み合う形になり、狼男の踏み込みがわずかに止まる。
――あれは、"止める" ための盾だ。
私は、その一瞬の硬直に踏み込んだ。剣先が、狼男の肩口を裂く。確かな手応え。血が飛ぶ。けれど、狼男は止まらない。刺さった棘ごと腕を振り抜き、少年の盾が弾かれる。
次の瞬間、鈍い衝撃が腹部を打った。
視界が揺れ、床が迫る。蹴りの一撃で吹き飛ばされたのだと理解するまで、半拍遅れた。身体の奥が大きく削られる感覚が走る。
治る。けれど――重い。いつもなら一瞬で戻るはずの感触が、戻りきらない。
膝をついた私の前で、狼男が次の一歩を踏み出す。
少年が前に出た。私が立つはずだった位置だ。けれど、否定する暇はない。少年の動きに、迷いはなかった。いつの間にか武器を刀に変えて両手で構え、狼男の懐へ踏み込む。その姿を、私は床に座ったまま見ていた。
その時だった。
背後から、冷たい感触が突き抜けた。理解するより先に、胸の奥まで届く衝撃が届いた。
息が詰まり、視界が白く弾ける。鮮血に濡れた鋼の切っ先が、背中から腹を貫通し、目の前に突き出している。
遅れて、何が起きたのかを理解する。痩せた悪魔の槍だ。いつの間に回り込んでいたのか、背後からの、完璧な一撃。
致命傷――本来なら、そう判断される一撃だった。
だが、私は倒れなかった。
槍を、抜かせない。抜けないように、私は左手で、穂先を握りしめる。痩せた悪魔が、背後の至近距離で動きを止めている。想定していない抵抗に、わずかな硬直が生まれた。
その一瞬で、足りた。
私は、槍が刺さったまま、強引に身体を捻る。背骨が軋み、内側で何かが裂ける感覚が走る。それでも、腕は動いた。剣の刃を握って短く持ち、喉元へ突き込む。
刃が、抵抗なく沈んだ。
短い音。空気が漏れるような感触。痩せた悪魔の身体から、力が抜ける。槍が手から滑り落ち、床に転がった。
私は、その場に膝をついた。
治る。
分かっている。だが――戻らない。
身体の奥が、空洞になったようだった。血は止まる。穴は塞がる。それでも、失われた何かが戻ってこない。息を吸うだけで、重い。視界が、わずかに揺れる。
動ける。だが、これ以上は――保たない。
それでも私は顔を上げた。狼男と少年が刃を交えている。刀が弾かれ、火花が散る。狼男の傷も確実に増えてはいたが、なお圧が強い。けれど少年は退かない。
その背後で、空気が歪んだ。
大柄な女の悪魔が、両腕を揃え、指先を突き出す。その先にいるのは、少年だ。輪郭の曖昧な光が、指先にゆっくりと凝縮されていく。
あれは、見過ごせない。
考えるより先に、身体が動いていた。私は、大柄な女の悪魔に向かって、なるべく回転するように、剣を投げた。
剣は、大柄な女の悪魔の腕を掠めた。その瞬間、光弾が放たれる。狙いがズレた光弾は、空気の歪みを引きずるように飛んでいき――狼男の背に、触れた。
衝撃も、爆発もない。ただ、狼男の様子が、目に見えて変わる。
筋肉の張りが、抜ける。白いマントの下で、体毛の色が、くすんだように見えた。狼男が低く唸る。初めて、苦痛の混じった声だった。吸われている。そう理解した時には、もう遅い。
狼男の身体が、わずかに傾く。その一拍を、少年は見逃さなかった。
踏み込む。今までで一番、深い踏み込みだった。
床を蹴り、身体が跳ね上がる。刀が、見上げる軌道で走る。
一瞬、皮膚に触れて止まり――そして、狼男の首が、落ちた。
巨体が前へ崩れ、床を揺らして倒れ伏す。遅れて、音が来た。
私は、その光景を、ぼんやりと見ていた。
狼男の身体から歪んだ光球が飛び出して、大柄な女の悪魔の口へと向かっていった。悪魔は、息を吸うように、光球を飲み込む。
そして――髪色が、変わった。
緑を帯びた黒髪が、ゆっくりと色を失い、代わりに、紫がかった淡い桃色が滲み出す。染まる、というより、内側から滲み上がってくるような色だった。
空気が、張り付く。視線が合った瞬間、胸の奥が、ぞくりと冷えた。
――さっきと同じ悪魔じゃない。
視界の端で、少年がこちらを見る。そして、すぐに前を向き直る。次は、あれと戦うつもりだ。
空気が、明確に変わった。
大柄な女の悪魔――いや、さっきまでのそれとは、もはや別物だ。立っているだけで、霧が足元から避けていく。女の悪魔の全身から、目に見えない何かが滲み出している。その気配だけで、霧は肌にまとわりつくような圧を帯びていた。
少年が、刀を構え直し、一歩踏み出す。だが、次の瞬間には、距離が潰れていた。
速い。あの狼男よりも。
少年の刃が振り下ろされる。女の悪魔は、避けなかった。伸びた掌が、刃の腹に触れる。押すでも、弾くでもない。ただ、角度をずらす。それだけで刀は軌道を変え、床を叩いた。
女の悪魔の指先が動き、小さな光が、連続して弾ける。避けきれない。少年の身体が弾かれ、床を転がる。立ち上がろうとして、間に合わない。
女の悪魔の身体が、わずかに沈む。それが踏み込みだと理解した時には、もう遅かった。
長い脚が、鞭のようにしなる。鋭く引き絞られた爪先が、一直線に少年の胸元へ突き込まれた。
衝撃。
空気が潰れたような音とともに、少年の身体が宙を舞う。
次の瞬間、こちらへ吹き飛んできた少年と、重なって床に倒れ込んだ。
近い。息遣いが、すぐそこにある。血の匂いが、濃い。胸元が大きく裂け、骨が覗いている。呼吸は浅く、喉が小さく鳴るだけだった。
――これは、もう。
頭では分かっていた。私は、もう治せない。それでも、手が伸びていた。
触れた瞬間、違和感が走る。いつもの感覚じゃない。巻き戻るはずの流れが、どこにもない。空っぽだ。
なのに。
代わりに、何かが――流れ込んでくる。
温度。拍動。構造。
自分のものじゃない。でも、拒めない。
視界が白く弾け、少年が大きく息を吸う。裂けていた胸元が、目に見えて塞がっていく。血が止まり、肉が戻る。異常な速さだった。
「……?」
少年が、短く息を吐き、立ち上がる。一瞬、こちらを見るが、すぐに前を向く。
女の悪魔が、舌打ちする。
再び距離を詰めるため、少年が、踏み出した。さっきより、迷いがない。
踏み込みと同時に、打撃が交錯する。
少年の避ける角度が、違う。受け方が、違う。傷を恐れていない。
――いや、違う。
傷を前提にして動いている。
刃が走る。光が弾ける。少年は止まらない。
私は、それを床に座ったまま見ていた。
胸の奥が、静かだった。もう、何も残っていない。
それでも、不思議と、焦りはなかった。
――ああ。
大丈夫だ。あの少年は、もう。
女の悪魔の身体が崩れる。
音が、遠い。
私は、その場に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
身体が、重い。指先の感覚が、薄れていく。
役目は、終わった。
そう思ったところで――短く、乾いた破裂音が、一つ、響いた。
視界の端で、黒いネグリジェの裾が、遅れて翻る。
床が、近づく。
最後に見えたのは、立ち尽くす少年の背中だった。
――これで、いい。
脳裏に、父の顔がよぎった。
不屈の少女-完-

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不屈の少女 第九章(ダイジェスト)
戦いは、終盤に差しかかっていた。
治すたびに、身体の内側から何かが削れていく感覚が、はっきりと分かるようになっていた。まだ動ける。まだ戦える。けれど私は、この能力が無限ではないことを、思い知らされていた。
痩せた悪魔の不意打ちにより致命傷を負う。反撃により痩せた悪魔を倒し、能力で傷を修復する。傷は塞がったが、身体の奥は、もう空っぽだった。
床に座り込んだまま、少年と悪魔の戦いを見ていた。やがて女の悪魔が、狼男から奪った力によって、さらに強大な存在へと変貌する。強烈な蹴撃を受けた少年の身体が、こちらへ飛んできた。
骨が覗くほどの深い傷。
私は治そうとして手を伸ばす。けれど、何も残っていない感覚だった。
それなのに、少年は立ち上がる。裂けていた胸元が、目に見えて塞がっていく。血が止まり、肉が戻る。異常な速さだった。
再び悪魔に立ち向かう少年の背中を、私はぼんやりと見ていた。
――これで、いい。
悪魔が崩れ落ちたその時、短い銃声が響き、視界が揺れた。
脳裏に、父の顔がよぎった。
――完全版は、アプリ内で。

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